2011年7月10日日曜日

東京の地名の由来



今回は東京の地名という限定的な題目なので、日本語でのみ表記させて頂きます。
東京にお住まいの方にはなかなか興味深いのではないでしょうか。

もともと東京は江戸という名の都市でした。江戸は鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられています。江戸の”江”は川あるいは入江とすると、”戸”は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力です。東京は京都から遷都される際、東の京都という意味で、東京と呼ばれるようになりました。

現在の東京都内の地名は、江戸時代や中世から引き継がれている場合が多いのですが、あまりに古い地名は由来も曖昧なものも少なくありません。
ここではいくつかの地名由来を挙げてゆきたいと思います。

まず、東京の代表的な地名は江戸城や幕府が名前の由来になっているものが多いです。 現在、皇居の立地する場所に江戸城があり、それを囲むように内濠(内堀)、外濠(外堀)がありました。 外堀の一部は今も神田川として存在してますが、日本橋川は首都高に蓋をされた形になり、その他の多くも戦後に埋め立てられました。しかし、そこに架けられていた橋は地名に残りました。現存するものもあるのですが、日本橋水道橋浅草橋飯田橋新橋数奇屋橋が代表的な例です。 さらに江戸城を取り囲む多くの門も地名になり、半蔵門桜田門虎ノ門御成門、大手門付近を大手町と呼びました。そして見張り番が置かれていた城門などの施設を”見附”と呼称しますが、赤坂見附もその一つです。江戸城の御殿は本丸と呼ばれ外堀の内側が御曲輪内(おくるわうち)、今の丸の内になります。ちなみに江戸城の別名は千代田城と言いました。

当時、幕府に関わる名称には敬意を称して”御”をつけました、例をあげると御家人、御三家、大御所などがありますが、幕府が預かる歩兵のことは御徒(おかち)と呼ばれ、彼らが住んだ長屋が多く所在した町を御徒町
上記にもある将軍が芝増上寺の参内を迎える際に用いる門を御成門。近辺の湧水から将軍のお茶用の水として献上されたことから、御茶ノ水
現在観光地として賑わっているお台場(御台場)は、幕末の黒船来航による海防対策によって幕府によって普請された、複数の砲台の台場から由来しています。

そして当時江戸幕府には”金座”と”銀座”という金と銀の鋳造所がありました。金座のあった場所は現在日本銀行が立地されており、銀座は日本を代表する繁華街として知られています。

動物に由来した地名もいくつかあります。徳川御三家が利用していた鷹場(鷹狩りの鷹の訓練場所)は三鷹、1636年、徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営されたところが高田馬場、古代の武蔵国にあった馬牧が駒込馬込、「神崎牛牧(ぎゅうまき)」という牧場だった場所が牛込と呼ばれてます。

また、江戸時代には、日本各地に通じる五街道が整備され、起点となる日本橋から最も近い宿場が江戸四宿として栄えました。品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿はそれぞれ品川板橋千住新宿として今も名前を残しています。

他に変わった地名は八重洲で、江戸時代に住んでいた徳川家康の国際情勢顧問や通訳オランダ人ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Lodensteyn)の和名「耶楊子(やようす)」から由来します。有楽町は江戸開府の際に織田信長の弟、織田長益(有楽斎)が徳川家康より数寄屋橋御門周辺の土地を拝領し、屋敷を設けたことが由来というのが有力な説です。

その他にもまだまだ由来のある地名はあるのですが、それはまた違う機会に書きたいと思います。


近藤 裕彦

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